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ヴェノム 最悪過ぎる

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この映画における宣伝の「最悪」やら「凶暴」やら、全部嘘だ。ヴェノムはローガンやデッドプールのような映画に「なれた可能性はあった」。だが、敢えて挑戦しなかった。キャラクター性に真摯に向き合い、必要な過程として描くための「残酷表現」から逃げなかったマーベルの先駆者達とは違い、ヴェノムには新しい事にチャレンジしようという情熱が一切感じられない。SONY側もなんだかんだ今作はMUCとは関係がない違う世界線の単独映画だと言いながらも結局は将来的にMUCとのクロスオーバーを意識しているようで、それが残酷描写の自主規制に繋がり、つまりレーティングの面では全年齢対象映画として興行的には大きなメリットとなった。トム・ホランド演じる新スパイダーマンニューヨーク市民の生首を咥えながら臓物を振り回しているヴェノムというのも見たかったが(絶対あり得ない!)、将来的にMUCとのクロスオーバーを意識しているらしいヴェノムには首が飛び内臓や脳ミソが飛び散る人体破壊描写などがある訳がないし、文字通り安心して食卓で箸をつつきながら観れるファミリームービーとなっているのだが、そのくせヴェノムは全般に渡って一丁前に内臓を食うだの手足を引きちぎるだの頭から食ってやるだの吠えるため、なんだかやたら威勢だけは良いピエロに見えてしまう。ヴェノムは出来もしない事をさも雰囲気でやれるように誤魔化しているような威勢のいい事を言ったもん勝ち映画だ。要はひたすら外連で誤魔化しているだけなのだが、こういうのを割と「最悪」と言うのではないだろうか。「見せない方が怖い」手法では無く、見せられないだけだ。何とも煮え切らない多方面に顔色を伺った演出の数々に強い反感を覚えるし、そもそもヴェノムが粗暴な事を言う度、それらは全て言い訳のような物言いに聞こえてしまい、怒りが収まらない。

 

 

様々な「大人の事情」を汲んでみても、余りにも残酷表現をガワに追いやり過ぎてしまった。ヴェノムにおける到底真面目に理解する事など出来ない酸鼻を極めたホラー描写の数々にはまったく心から全く感心させられるし、それらの演出の全てには「子供が楽しんで観れるのはこのくらいだろう」というなんとも面の皮が厚い制作側の浅はかな手抜きと傲慢を感じるのは気のせいか。ヴェノムは「レーティングの中のギリギリのラインを攻める」ことすらも、一切諦めている。世の中に絶対に「安全」な作品や表現は無いが、ヴェノムは限りなく「安全」に近い映画だ。恐らくこの映画を見て心底ヴェノムが怖かったと思う人はいないはずだ。角を取ってひたすらに丸くした安全志向のポップ表現。その文脈では大成功であるし、その良さが評価されているのは百も承知である。だが、この映画に於いてはヴェノムというキャラクターの無軌道な凶悪性や暴力性を描く事、どうやらそれこそがヴェノムというキャラクターに真摯に向き合う事ではなかったらしい。ともなればこの映画の主人公であり、ヴェノムの宿主となるトム・ハーディ演じるエディ・ブロックとヴェノムの親和性、関係性こそが観ていて微笑ましいというのは分かる。その異種間バディ感は2次創作における妄想性を煽ってクリティカルに想像を膨らませるものだし、それが所謂「キュートなヴェノム」人気に繋がり日本でもマーケティングとしては成功しているのだが、しかし、2人の親和性を今作の1番の売りにするのであれば、ヴェノムというまさに宇宙からやってきた無軌道な侵略者が「何故主人公であるエディ・ブロックを選び、彼じゃないとダメなのか」を物語のオリジンとなる今作のうちに時間をかけてしっかりと描かなければならなかったはずではないだろうか?そのエクスキューズが全くといっていいほど描かれないため、本来は危険生物であるヴェノムがエディ・ブロックに命を懸けてまで肩入れする理由が分からないまま、最後までエディと地球の為に奮闘するヒーローの様体を観せられても、感情移入の余地すら無いのだ。残酷表現を一切取り上げられてしまったヴェノムを老若男女問わず面白く魅せるには、とにかく何がなんでもこの異種間友情モノの熱い関係性で観客をブチアゲる事に必死に頭を使ったのだろうが、しかしながらそれらの要素ですら結局プロットや演出が表層的で余りにも浅過ぎるために、全体的を通して結局居所の悪い残尿感が残る残念な映画であった。

 

ちなみに一応ヴェノムが「負け犬同士だからお前が気に入った」とエディに説明するシーンがあるが、この映画における主人公エディ・ブロックの一体何処が「負け犬」だと言うのか?彼は物語序盤で敏腕ジャーナリストもといニュースリポーターとして大人気を博していたところ、ある種の業界のタブーに突っ込んだところ社会的に抹殺されてしまうのだが、曲がりなりにも巨悪を正さんとし、己の信念に基づいて立場と危険を顧みずに勇敢に行動した彼の事を「負け犬」と呼んでいいのか?どう見てもこの映画の前半で描かれる彼は才能と行動力に溢れた人物である。その彼が信念に基づいた結果、結果として仕事も彼女も社会的立場も失った事を安置に「負け犬」と指しているなら、この映画の「負け犬」はさぞ使いやすい記号的なものだろう。どうやらこの映画の「負け犬」とは「過程を問わず」社会的立場と愛する者を失った者の事らしい。それと、この映画においては2人を結びつけるキッカケが「負け犬」である必要性は全く無いはずだ。何故なら2人は負け犬じゃないからだ。そんなに無理して「負け犬バディ」感を出そうなんてしてもらわなくて結構である。大した掘り下げもしないクセに「ウケやすいように、それらしくしておこう」なんて強引な設定には非常に強い反感を覚えるのみだ。