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ヘレディタリー継承 素晴し過ぎる

 

 

 

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こんな面白い映画を映画館で観れたのだ。

なんだか、生きてて良かった。

 

 

エクソシスト以来の恐怖」という宣伝文句も強ち間違いでは無い。だが、昨今のホラー映画のポスターや宣伝文句にはいかんせんハッタリ、外連が足りない。「この映画を見ると血しぶきあげて死ぬ」とか何でもいいじゃないか。今のはバカだと思われる可能性があるから撤回するが、何を皆クソ真面目になっているんだと思う。

 

 

ドント・ブリーズ」が「20年に一本の恐怖の作品」というひたすらテキトーな宣伝文句だったのは記憶に新しい。「サンゲリア」のように生命保険や墓までつけろとまでは言わないが、割と最近で言えば「キャビン」のポスターのキャッチコピーを見習うべきだ。「あなたの想像力なんて、たかが知れている。」。そこまで言うなら、観に行こうとなるのが道理である。そもそも映画なんて自分の想像力を超えるものを観に行くわけだから、これを超える映画のキャッチコピーは無いわけだ。実際「キャビン」にはあらゆる想像力を超えた面白さがたくさん詰まっていた。

 

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話をヘレディタリーに戻そう。今作はどうもエクソシストと比較されているのだが、かつてエクソシストは公開後に世界中で人死を出し、世界中にネガティヴなエフェクトな与えた。その影響力で言っても「時計仕掛けのオレンジ」と並ぶような曰く付きの「恐怖映画」だが、ヘレディタリーの「恐怖」はエクソシストと似て非なるものである。エクソシストを「お母さんが諦めずに子供を救おうと奮闘する家族映画」として観る事も出来る。ヘレディタリーもそういう見方は出来るが、ヘレディタリーで描かれる恐怖は単純に「家族映画」として一括りに出来ない所にあり、そもそも恐怖の表現が多彩なところにある。しかし、ホラーとしてどうというよりかは全編が圧倒的な「嫌な感じ」なのだ。それが、この映画をホラー映画として面白く、美しくさせている。ひたすら「恐怖の追求」という意味と文脈では「悪魔のいけにえ」を強く連想させる。

 

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この美しさに匹敵するのだ。

 

 

 

悪魔のいけにえ」はホラー映画史上最も「人間の恐怖」を表現し尽くした「恐怖映画」だが、ヘレディタリーほど細部まで精巧に考え抜かれて撮られた作品では無い。テキサスで育ったトビー・フーパーが自身の故郷で撮影した事によるミラクルが起こした映像的マジックもあったのかもしれない。だが、へレディタリーのカメラワークやセット、キャスティングからプロットは何から何まで文句のつけようがないほどに巧妙かつ完璧なのだ。全ての伏線と演出がミニチュア・セットの如く計算し尽くされた筆舌に尽くしがたい極めて映画的な表現がヘレディタリーにはあるし、歴史に燦然と輝くホラー映画達に対するリスペクトも決して忘れない。

ヘレディタリーは全て「イヤらしくない」のが秀逸だし、特に「恐怖の追求とその鮮度」という点において人後に落ちないアイデアと魅力に溢れている。ヘレディタリーで描かれる究極の「絶対こんな家族と関わりたくないし、こんな空間にいたくない本当に嫌な感じ」の完全な表現。これらは決して誰にも描ける事ではない。その表現を可能にしたのは、アリ・アスター監督の家庭環境から培われた経験やパーソナルな問題や酸鼻を極めるトラウマから湧き上がらせたものであるというのは映画監督、いや、表現者として至極真っ当かつ、素直に素晴らしいと思う。こんなに素晴らしい事はない。当たり前だが、本当に面白い表現というのは「個人的」なものだ。その上で、それらを実現する才能と知識が必要であり、残酷な事かもしれないが、口先の情熱だけでは決して良い映画は作れない。ヘレディタリーは最初から大衆に受け入れられるようにマーケティングやスクリーミングテストを何度も重ねたり、予め観客の反応を忖度して作られているような映画群とは明らかに一線を画している。ヘレディタリーはひたすらにアイデアと才能の勝利なのだ。

 

 

100点