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ファンタスティック・ビースト 黒い魔法使いの誕生 どうしようもなさ過ぎる

 

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今作はハリーポッターシリーズで「最も退屈」だが、最も意欲的な作品である。ハリー・ポッターシリーズ及びファンタスティック・ビーストシリーズを批評する多くの場合に、ガジェットや映像的なスタンダール・シンドロームばかりが追求されており、それは元々イギリスの「児童文学」であるハリーポッターシリーズが世界的人気を博した大きな理由として、ウォルト・ディズニーが自身の生涯をかけて目指した究極のマット・アート的「現実にはあり得ない魔法や日常、新世界への没入」に世界中の人々は時代を問わず心を踊らせるものだからであり、原作の世界観の細やかな再現としてその手法を遺憾無く発揮したハリーポッターの映画シリーズにおいてそういった見方は至極健全なのだが、せっかく今作では明確に原作者がそういった要素を徐々に脇に追いやろうとしているのに関わらず、いつまでも形骸化した記号的なノスタルジーにばかり目につけているハリー・ポッターファンは複雑な気持ちなのではないか。今作で「よく分からなかったけど、ダークで最高!」と言っているような「ダークナイト」をさも全肯定しているような盲目的な絶賛の声には正直耳を疑ってしまうし、プリクエルや改変を巡って、世界中のスター・ウォーズファンが原作者のジョージ・ルーカスと戦ったように、ハリー・ポッターのファン達はJ.Kローリングと戦うべきである。

 

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ハリー・ポッターファンが今作の出来に満足しているなんていうのは、とても信じ難い。勿論、原作者が提示したものが絶対的「正史」であり、ファンにとっての「聖典」である事は逃れ得ないのだが、これは「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」に通ずるような欺瞞と疑問に富んだ作品だ。多くの人々がハリーポッターの世界に求めているものは今作で描かれる「政治性のあるメッセージ」でも「戦争の陰惨さ」でも「人権問題」でも無いはずだ。求められているのは「魔法を始めとしたファンタジー世界への没入感」であるのに対し、今作はそういったライト層に対する「NO!」を突き付けた作品と言える。いや、突き付けてきてはいるが、それがとても弱い力で頼りない上、どっちつかずなのが難点だ。クソほど甘ったるいストロベリークリームケーキの中にスポンジが入っており、スポンジには目配せとしての隠し味的スパイスもあるのだが、残念ながらどれも全く美味しくない。だが、多くの人々がハリーポッターの世界に求めているであろうファンムービー的な接待要素や記号的な魅力のみに頼ることなく、J.Kローリングの「作家性」が今作では良くも悪くもしっかり発揮されている点においては、新しい試みと言えるだろう。

 

ちなみにハリーポッターシリーズはよく「スターウォーズ」と「指輪物語」の二番煎じと指摘されるようだ。まさに主人公のハリー・ポッタースター・ウォーズルーク・スカイウォーカーその人であり、両者ともに本来の両親の顔や愛を知らずに他者に育てられ、極めて閉塞的な環境の中で「このまま一生を終えるのか」と現状に絶望する毎日を過ごしていたが、ある日突然己の運命と向き合う事になり、夢焦がれた外の世界へ旅立ち、最終的に世界を救う。

 

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このような貴種流離譚の物語はストーリーのフォーマットとして定番かつ、例に漏れずハリーポッターシリーズもその流れを汲んでいる。ハリーポッターに登場する死の秘宝はそのまま指輪物語における「指輪」であり、さらにヴォルデモート卿の「分霊箱」の元ネタでもある。ハリーポッターフロド・バギンズ同様「指輪=分霊箱」を破壊する目的の旅をする事になる。これらは膨大なまでの設定量指輪物語のほんの一部に過ぎないのだが、J.Kローリングはハリー・ポッターを執筆する際に「世界中のありとあらゆる物語を参考にした」と言う。

 

しかし、ハリー・ポッターシリーズの大きな魅力や特徴として、キャラクターの出自と時代背景、その設定の細やかさがある。キャラクターそれぞれに設定があるのは当然であるし、世界観を織り成す数々の設定やキャラクター達の掘り下げや描き込み自体を褒めているのでは無くて、それらには1つ1つ作者の明確なイデオロギーが詰まっているのが特徴だ。ハリーポッターの世界観やキャラクター達はエクストリームなほどに「分かりやすい」エスタブリッシュメント像とマイノリティ像に分かれ、善悪問わずに賢くて強い女性像(特に母親)がハッキリ強く描かれており、レイシズムジェンダー、迫害や虐待などパーソナルな家庭問題等を抱えたキャラクターが目立つ。こういった設定が多いのはJ.Kローリングが度々インタビューで公言しているように、ハリーポッターの主要キャラクターの多くは全てJ.Kローリング自身の投影であり、もはや生き写しそのものなのだ。崩壊した家庭環境や異性問題に悩まされ、生活保護を受けながら「賢者の石」を描いていたという事からも、決して並よりも恵まれた環境ではなかったJ.Kローリング自身の投影が様々なキャラクターの影の部分の肉付けになっているし、支配階級や富裕層に対しての皮肉やアンチテーゼは非常に分かりやすい形として描かれる(ダドリー一家という戯画化された富裕層に対する作者の嫌悪感は特に顕著である)。

 

 

 

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とりあえず頭が悪そうなのは一目瞭然である。

 

 

それは分かりやすく例えれば、スピルバーグが自分が経験した「家庭問題」や「両親と子供」のトラウマ体験を自身のアイデンティティとして描くべきテーマ性やして今でも提示し続け、作家性としているのと同義であるし、さらにJ.Kローリングはインタビューで「指輪物語は子供時代に読んだことはあるけど、ファンタジーは嫌い」と答えている(一体どこまで信用して良いものか分からないものだが)。本人の弁によれば、第1作目の「賢者の石」を中盤まで書き終えた時点で自分が描いているのはファンタジーであるという事に気付いたという。つまり少なくともJ.Kローリングは自身がハリーポッターの世界を描く事で、世界中の子供達をキラキラのファンタジーの世界に連れていきたい!なんて事は思ってはいないし、そもそもJ.Kローリングという作家性の本質は「ファンタジー性」では無く、ファンタジーという要素を通して「自身に経験に基づいた現実」をリアルに表現する事にあるはずだ。恐らくはそれを実現させたかったのが、今作ファンタスティック・ビースト黒い魔法使いの誕生なのである。勿論、ハリーポッターシリーズに常に要求されているようなファンムービー的接待要素もゼロではないが、前作からの魔法生物萌え要素や主人公達のラブロマンスの行方などは割と軽めのマイルドなタッチの仕上がりとなっており、それらの安全要素をガワに置いやってまで今作でJ.Kローリングが表現したいのは、敢えて安っぽい言い方で書かせてもらうが「ダーク」で「シリアス」な「リアル路線」なのだ。その極めて分かりやすい象徴として、今作の終盤に戦車や原爆のキノコ雲を見て魔法使い達が戦争を想起して恐怖するシークエンスがあるのだが、メディアのハイプ宣伝に促されるまま、今作に「圧倒的ファンタジー感」を求めてスクリーンに足を運んだファンにはこのシーンは違和感を覚えたのではないだろうか。ハリー・ポッターにディズニー・ランドのような夢の世界を求めている人達は面食らったはずだ。それもそのはず、極端な言い方をすればエレクトリカル・パレードにナチが出てこないのと一緒であるし、このシリーズにおいて舞台装置的表現での戦争恐怖描写は果たしてどうか…?とは思うのだが、それよりも「従来の設定や安全な要素を出来るだけ排除して、新しい方向にシフトチェンジしたい」という原作者の姿勢の象徴としての意味合いが強いシーンであるので、恐らくこういった表現をこの先も敷衍させていきたいのだろう(最大限汲み取ってはみたものの、実は大して意味のないシーンかもしれない)。そして、全5作品を予定している長丁場になるであろうファンタスティック・ビーストシリーズへの観客の興味の持続という意味では間違いなくこの映画は失敗している。極めて説明的なストーリーテリングの乱雑さ、演出バランスの欠如、前作の良さを全く活かしきれていない等、1つの映画として多くの問題があるが、1作目ファンタスティック・ビーストがハリー・ポッターシリーズのスピンオフ作品としては分かりやすくキャッチーな掴みとして成功したならば、今作は改めて方向性をこれまた「分かりやすい逆のキャッチーな記号」によって極めて説明的に指し示したシリーズの挑戦的かつ分岐的作品になったと言えるだろう。

 

 

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この2人は

 

 

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この2人である。

 

 

しかし、やはりそこにJ.Kローリングと大衆との決定的な乖離が生じる。ファンタスティック・ビーストはJ.Kローリングが本来描きたかった(ハリー・ポッターでは描き切れなかった)新しい表現方法であり、シリーズが再評価されるビッグチャンスとも言える。というのは、ハリー・ポッターシリーズは世界で最も売れたシリーズの1つだが、どうしても特に日本においての支持層がライトに偏り過ぎている印象を受けてしまう。個人的にこんなことはどうでもよいのだが、それは恐らく原作を熟読し知り尽くしているというファンの方が明らかに少ないという人気シリーズにあるまじき現状があり、この規模の大人気シリーズが作品に記号的なファッション要素や側面ばかりを求めているファン層で埋め尽くされている歪さになんとも呆れてしまうものだ(無論、娯楽大作そういうものなのは百も承知だが)。ハリー・ポッターシリーズの映画は新作か出る度にいつも金曜ロードショーでの再放送等、メディアの宣伝体系は気合が入っているようだが、とうとう今作に至っては蓋を開けたら「聞いてた話と違う…」という印象を受けるのではないか。その印象は今作に始まった事では決してないが、さらに今作はそういったライトなファン層との距離感をさらに広げようと、もしくは解消しようしているような印象を受ける。

 

 

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正直に言うと今までのハリーポッターの映画作品群を見るに、J.Kローリングに映画の脚本の才能があるかどうかは疑わしい(J.Kローリングが脚本を担当するのは前作ファンタスティック・ビーストからであるが、ハリー・ポッターシリーズの映画製作において、脚本や演出に対しての全面的な発言権は持っていた)。なのでここまで来たら、もはや今後はJ.Kローリングにもっと無軌道に思うがままにハンドルを切ってほしいのである。それが一体どのような結果をもたらすのかは想像するだけで悍しいが、そちらに振り切った方がまだ鑑賞に耐えうるユニークな作品が見られるはずだ。まだ5作目中2作目だが、どうやらここから先は「賢者の石」の時のような「ファンタジー」とは違った世界が描かれるらしい。だとすれば、その新しい土壌を作った起爆剤としての役割を持った本作はなんにせよ、新しい「誕生」なのである。