Rat World

映画や音楽や与太話

「The Last of Us Part II」について

本作について世界中で賛否両論が湧き上がっている事に対し、本当に虚しさを感じてしまう。

 

人間、お金を払った以上は必ず自分の理想のものが手に入ると「盲信」しているが、これらは前作より長い年月を掛けて発売された本作の期待値と相乗して歪な障壁になっているようだ。

例えば映画観賞後に「全然思ったのと違う!」と憤る人はよく散見されるが、作品の意外性を排斥の対象と見做し、批判する精神は一体何処で培われたのだろう?見たいものしかみない、知らないものは見たくない、ショックを受けたくない…これらは多くのゲームプレイヤーが作品への「未体験」を強く求めている前提においては、極めて相反する幼児的な欲求ではないだろうか。自身の想像力を超えていく表現に触れる事。それは作品に触れる大きな醍醐味であるのに対し、どうやら多くの人々は「ラストオブアス2」に拒否反応を示しているようである。その殆どがやれPCだのxxxが死んだだの、大筋のストーリーに対しての「NO!」であるという。勿論、前提としてゲームが『その場の自己快楽だけを満たすだけの都合の良いツール』である人には受け入れ難い物語なのだろう。楽しみ方に対して乖離があったと感じるそのようなプレイヤーでも一体ラストオブアスの世界に何を求めていたのか?という事は改めて一考すべきではないか。勿論、伏線はあれど悪目立ちは否めないPC、操作キャラクターによる視点や立場の反転作用…これらが多くのプレイヤーの反発に上がる事は作り手は想定済であるはずだ。そして、決して安易な快感とは程遠い陰惨なまでの憎悪と暴力の連鎖、人間の絶望と生と死。本作は前作からの思い切りの良さを武器に「復讐」を軸に据え、シンプルかつ陰惨な世界を描き切っている。首の皮一枚が常に突き付けられる陰惨な世界に対し、都合の良い延長としての安易な擬似家族愛は描かず、徹底して人間の業を突き詰めた本作に程度の差こそあれ、ここはひとつ向き合ってみるべきではないだろうか。

「ラストオブアス」は世界中で名声を上げた名作だが、何が受け入れられたのか?それはストーリーの上に「必要となるゲーム性」という構成が完全に成立していたからだ。ラストオブアスの舞台はファンタジーでは無く、凡そ我々の世界の延長線上に過ぎない。よって過剰にプレイヤーにアドレナリンを刺激する事は無い(そこには便利な魔法も優れたテクノロジーも存在しないからだ)。世界中でパンデミックが発生し、テロリストを始めとする有象無象が群雄割拠する弱肉強食の世界。この舞台設定自体に真新しさは無く、ゲーム性だけにフォーカスすれば凡、プレイには中毒性も無い「ラストオブアス」が非ジェネリックなエンターテイメントとなったのは、陰惨な世界を旅するジョエルとエリーの擬似家族像、エリーを守る為のジョエルの行動と選択。これらに多くのプレイヤーが心を揺さ振られたからに他ならない(勿論、物語をビルやトミーを始めとする多彩な魅力的なキャラクターが支えている事は書き足しておく)。

 

前作のラストのジョエルの選択、それは大切な「個」を救う為に「世界」を殺した事だった。

「世界を売った男」とも言おうか、世界を敵に回し、1人の娘を守った。確かに一刻も早くエリーを助け出す為、病院内でファイアフライを惨殺して回るジョエルを操作する際に多くのプレイヤーがコントローラーを握る両手に熱が入ったのは事実だろう。しかし、見方次第ではヒロイックな感銘を受けるかもしれないが、裏を返せば世界への裏切り、エゴの極みでしか無い(しかし、その後のジョエルが素晴らしいのは安直な自己嫌悪や悲哀に陥る事も無く、ただ前向きに、穏やかにエリーと共に生きようとしたところだと思う)。ジョエルは大切な存在となったエリーを生贄には出来なかった。ジョエルは正しくも間違ってもいない。この善悪の判断を「後日談まで全てを説明しないと気が済まないような押し付けがましい昨今の作品群」と差別化するが如く、良心の呵責と余韻を丸ごとプレイヤーに委ねた部分が前作の評価点として大きいのは間違いない。

本作で描かれるのはジョエルが己が願望を満たす為に犠牲にした人間の感情そのものだ。つまり「プレイヤーが衒いも無く殺してきた相手の感情」であり、その痛みを操作キャラクターの反転によって、強制的に味合わせるのだ。復讐する側とされる側では無く、常に復讐する側としてのレールをプレイヤーは練り歩くことになる。このシンプルな構造は映画や漫画であれば俯瞰して考える事が出来ても、これはゲームである以上、事実上の操作を伴う。それは「行動の責任」を突き付けられているといっても過言では無い程、物語が進めば進むほどにキャラクター達の姿や言動は痛々しく感じられるように作られている。これはゲームという媒体だからこそ実現した、「画面の先の他人事ではない人間の感情」の表現。これはフォーマットにとっての大きな希望ではないだろうか。

 

そしてエンディングを迎え、臨界点を超えたこの物語のエンディングがプレイヤーにカタルシスを齎す事は決して無く、まるで止まる事の出来なかった歯車に身を引き裂かれるような感情に胸が締め付けられる事と思う。ゲームをここまで「体験」として挑戦し、提示してみせた「ラストオブアス2」にはいちゲームプレイヤーとして最大級の賛辞を送りたい。

 

スパイダーマン ファー・フロム・ホーム スパイダーマン最高傑作

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「エンドゲーム」から約二ヶ月が経ち、間髪入れずに公開されたフェイズ3の総括である本作はIW〜エンドゲームの余韻を吹き飛ばす力に満ちている。サノスとの究極の戦いを堪能した直後に今更「親愛なる隣人」のスケールダウンした小話に興奮出来るのか?そういった一抹の不安の霧中をウェブスウィングのように文字通り駆け抜けた本作、 流石MCUと片付けるのは簡単だが、本作はシリーズでも屈指の完成度ではないだろうか。

 

 

前作「ホーム・カミング」は毎度恒例のベン爺の「大いなる力には〜」のくだりや主人公ピーター・パーカーが蜘蛛に噛まれてスパイダーマンとして生まれ変わるヒーローオリジンとしての前後の文脈を徹底排除、ハナからNY市民の中でのヒーロー、「親愛なる隣人」としてのスパイダーマンの活躍を描いた。振り返ればサム・ライミ版もマーク・ウェブ版も「そこまでは笑わない」スパイダーマンであり、「眉間にシワを寄せて悩み続けるヒーロー」が形骸化したような昨今のアメコミの風潮の中(もはやその風潮すら今や古いと言えるだろう)、「愛らしい小作品」としてのホームカミングはとても斬新かつ、シンプルにまとまっていた。尚且つ、ヴァルチャーとアイアンマンという二つの巨大な「父性」を描く事によって、未熟なピーター・パーカーが「大人の深さ」を知り、成長するジュブナイルでもあった。マイケル・キートン扮するヴァルチャーが車中でピーターに詰問するシークエンスでピーターは今や監督ジョン・ワッツ印となっている「本気の大人の恐怖」を知る事になるのだが、「無垢な子供が本気の大人の圧に触れてしまった一抹の恐怖」は言うまでもなく学園生活とヒーロー活動が地続きかつ並行線である無邪気なピーター・パーカーだからこそ描く方が出来た恐怖である。ヒエラルキーに関しても、シリーズお馴染みの曲者フラッシュはピーターに難癖をつけるイヤな奴ではあるが、憎らしいほどではなくむしろ愛らしい。全体的に新スパイダーマンシリーズはこのなんとも愛らしいバランス感に溢れている。

 

本作は継承の物語でもあり、観光映画でもあり、甘酸っぱい恋物語でもある(愚直な観光映画というのは今や珍しくなってしまったが)。これでもかというくらいに歴代スパイダーマンの要素の全てが詰め込まれており、何よりジェイク・ギレンホール演じるミステリオはフェイズ3のラストを飾るに相応しいヴィランとなっている。サノスという圧倒的な「力」としてのヴィランを文字通り堪能し尽くした我々観客の「もはやスケールに麻痺してしまった感覚」にミステリオの持つ「虚構性」は深く突き刺さる。何を信じるのか?何をソースに?誰を?今ここで見えている世界を?フェイクニュースという分かりやすいメタファー然り、軽く殴れば倒せるような弱い男に確実に世界は騙されたのだ。「マントをつけて空を飛び回りビームを放つヒーロー像を人々は求めている、もはやそれをしなければ信じられないのだ」とミステリオは悠々と語る。エンドゲームで謂わば飽和化したヒーロー像と肥大化したスケールを極めて自己批評的に解釈し、目が肥えてしまった観客に冷や水をぶっ掛けるような新しいヴィラン。人々の希望的欲求に忠実に応えるミステリオはシズル感の溢れるMTV的ミュージック・ビデオのような存在だ。そんなミステリオは元々スターク・インダストリーズの研究者であり、革新的な技術を生み出したがスタークに一切認められずに解雇された事を恨み、ネクストアイアンマンの座を得ようとする。前作のヴィラン、ヴァルチャーは間接的にではあるが、トニー・スタークの手によって職を失ってしまった男だ(その後の彼は一体どうなったのだろうか?)。両者共にトニー・スタークによって生み出されたヴィランであり、彼らが悪に堕ちた動機は家族を守る為、自身の尊厳を守る為、とおよそ正しいものだ。エンドゲーム後の本作においてアイアンマン=トニー・スタークはサノスから全世界を救った英雄として世界中で神格化、崇拝の対象となっており、そういった風潮の中でトニー・スタークによって人生を狂わされたミステリオが不屈のDIY精神と技術力を持って「世界を騙す」という事に本作のカタルシスがある。世界が信じている聖人としてのトニー・スタークは永遠に英雄として偶像視されて祭り上げられるだろう、しかし、ミステリオやヴァルチャーが知っている本来のトニー・スタークは冷酷な人間でもあった。そして我々観客もトニー・スタークが決して完璧な人間などではなかった事を嫌というほど知っている。ミステリオからすればトニー・スタークが神格化されている事こそが「虚構」なのである。自惚れるなと言わんばかりのミステリオの冷静かつ俯瞰した視点は間違いなく今後のMCUの展望に必要なものであり、「エンドゲーム」で最高潮に盛り上がったフェイズ3の最後にこのヴィランを登場させる辺り、MCUの冷静沈着たる視点は恐ろしいものがあるだろう。

 

そして今作でついにトム・ホランドトビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドと並べても、いやMCU錚々たる顔ぶれの中でも全く見劣りしないスパイダーマンを演じてみせた。勿論「シビルウォー」や「IW〜エンドゲーム」でキャラクター造形を外堀を徐々に埋めていった実績も大きかったと感じるが、今作でトム・ホランドスパイダーマンの魅力はついに歴代スパイダーマンの臨界点を超えたといえる。16歳という若さでトニー・スタークの後継者として世界を背負う覚悟を問われ、本心では青春を謳歌したいピーター・パーカーの葛藤に観客は「親目線」で応援したくなってしまう。ここまで愛されるヒーローを演じられるのは現時点で彼以外に存在しないだろう。恒例のエンド・クレジットではサム・ライミスパイダーマンと言えばこの人、デイリー・ビューグルの編集長こと、JK・シモンズのサプライズ登場や今シリーズ初となるニューヨークの街をウェブスウィングするスパイダーマンさえ見せてくれるサービス精神。来年まで進展のないMUCだが、その勢いは衰える事は無いだろう。何より物語終盤、スパイダースーツを作り上げるピーターの姿にかつてのトニーの姿を見たハッピーの表情、それはMUCの未来がまだまだ明るい事を示唆しているに違いないのだから。

 

キャプテン・マーベルとオルタナティヴ・ロックの関係について

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今作「キャプテン・マーベル」は、MCU作品としては21作目になる。1995年を舞台にクリー人やスクラルという地球外生命体達と記憶を失ったキャプテン・マーベルの闘いを描いた今作は、ニック・フューリーが「アベンジャーズ」計画を構想した理由、真の「ファースト・アベンジャー」であるキャプテン・マーベルが初代メンバーに至った経緯、4次元キューブ(テッセラクト)の行方などが描かれる。

 

 

 

まず、結論から入ろう。

 

所詮はエンドゲームの前の箸休めとか言ってるバカはどこのどいつだ!ブリー・ラーソンの微妙な走り方を見て笑ってる奴はどこのどいつだ!

 

確かに今作はもはや飽和状態と化したMCUにとっての風穴にはなり得ていない。また、単なるフェミニズム映画として観るのはナンセンスだ。と、偉そうに一席ぶった割には、筆者は押し付けがましい程の90'sグランジオルタナティヴ・ロックの選曲に親指を立てながらノスタルジーに浸ってしまった訳だが(…果たしてそれでいいのか?)。しかし、今作は90年代カルチャーの精神を安直なノスタルジーだけに着地せず、時代性をそのまま蘇らせる事に少なからず成功しているのではないだろうか。

 

今作は90年代オルタナティヴ・ロックの祭典みたいな映画なのだが、単なるBGMでは無く、物語の装飾や彩りの意味を飛び超え、今作のテーマと楽曲1つ1つが極めて深く直結している。MUC映画での楽曲の扱い方で言うなれば、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズのジェームズ・ガンによるタランティーノに勝るとも劣らない選曲センスの素晴らしさは記憶に新しいが、今作はそんな「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」よりさらにストレートに楽曲が物語のテーマを訴えかけてくるのだ。

 

まず主人公のヴァース(キャロル・ダンヴァース)が地球に墜落した時にビデオマーケット屋の屋根にドカンと突っ込むのだが、その店には「Smashing pumpkins」や「PJ harvy」のポスターが貼られており、クリー人の服から着替えたヴァースのファッションは「Nine inch nails」のパチモンのTシャツとダメージ・ジーンズにスニーカーとジャケットと直球のグランジ・ファッションだ。無造作にヨれた金髪の髪型はカート・コバーンを意識したものだろう。今作で流れる「Garbage」や「No Doubt」も「Riot girl」の「女性による保守社会やマチズモへの反抗」の精神性を受け継ぐ直系バンドであるし、商業主義パーティ・ロックやアメリカ的マッチョイズム、女性をアクセサリーのように扱う男根主義に対して絶対的な「No!」を掲げたグランジ・ロックの雄「Nirvana」が流れ、極め付けはオルタナティヴ・ロックの最重要バンド「R.E.M.」と来る。と来れば、この映画のエンディングを飾るのはそれは「Hole」が妥当なのだろう。ちなみにキャロルの昔の写真の中にアクセル・ローズのコスプレをしている姿が見られるのはちょっと微笑ましいところだ。

 

今作において特に重要なのは「Nirvana」の「Come as you are」なのだが、何故そこまで重要なのかと言えばこの曲の歌詞こそが今作キャプテン・マーベルのテーマに一番直結しているからである。この曲は「俺の曲の歌詞に意味なんかない、ファックオフ」と言い張っていたカート・コバーンが書いた曲の中でも極めて分かりやすい歌詞で構成されている。

 

※歌詞の一部を意訳

 

Come as you are
お前はそのままでいいんだ。

as you were
育ってきたように、ありのままでいい。

As I want you to be
そして、俺が望んでいるように。

As a friend
お前は友達だから。

as a friend
大切な親友だ。

As an old enemy
かつては敵だったかも知れない。

Take your time, hurry up
時間をかけるのも、急ぐのも、

Choice is yours, don't be late

それを決めるのはお前だが、
決して手遅れにならないようにな。

Take a rest as a friend
でも、時には休んでくれよ。
君は大切な人だから。

As an old
そして、誰だって年をとるんだ。その前にな。

Memoria, memoria
記憶、思い出なんだ。

 

人間は「ありのままでいい」という事だ。

 

キャロル・ダンヴァースはかつての「メモリア=記憶」を失い、クリー人という巨悪に騙され、「自己」を隠蔽された人生を送ってきた。そのキャロル・ダンヴァースが精神世界で自己の存在意義やアイデンティティ、使命を確立し、抑えられていた力を完全に解放する(そのままになる)時、この「Come as you are(そのままになれ)」が流れる。直球過ぎると言えばド直球だが、この曲が持つスモールクローン(空間系のギターのエフェクター)が齎す独特の浮遊感とシンプルなメロディのリフレインが精神世界の臨場感と相まって、やはりカム・アズ・ユーアーが今作の重要なハイライトを彩るに相応しい選曲だったのは間違いない。

 

そして、キャプテン・マーベルとして覚醒したキャロル・ダンヴァースは己を騙し、自分達に都合良く利用してきたクリー人の男達と戦いを繰り広げる。そのファイトシーンでは「No Doubt」の「Just a girl」が流れるのだが、この時のキャプテン・マーベル=キャロル・ダンヴァースは「自分達の都合の良いように利用してくるような男達の言いなりには決してならない」というRiot girlが掲げたアティチュードをまさにそのまま体現しているのである。

 

オルタナティヴ・ロックの精神は「Nirvana」の「Come as you are」に集約されていると言っても過言ではない。噛み砕けばオルタナティヴ・ロックとは「周りに流されたり、忖度によって行動したり、他人に気に入られるために自分を偽ったりせずに、本当に大切なのは自分がどう在りたいかであり、自分が表現したい事は絶対に曲げるべきではない」というアティチュードに尽きる。業界のショウビズに塗れ、脚色と加工を繰り返したハイプなイロモノに堕ちる事無く、多くのオルタナティヴ・ロックバンド達は髪はワザとボサボサにしたり服は破れてヨレていたり、どんなに格好悪くてもいいから等身大の自分達のままで在り続けるんだというハードコアなスタンスを貫いた。それはファンやメディアがアーティストに求める「偶像視」への拒絶であり、楽器の上手い下手に拘らず、パッションとセンスで多くの先駆者達はその精神性を体現してきた。これは良くも悪くも聴き手の事情を考えない純粋な表現だ。だからこそ、そもそもマーケティングや商業主義とは真の意味では根本的に相容れないグランジ・ロックは短命であったし、終焉を迎え、時代のトレンドはポップ・パンクやブリット・ポップに移り変わっていった。つまり、今作の舞台である1995年ではもうオルタナティヴ・ロックのムーブメントは下火になっていたのだ。そんな中でも「R.E.M.」はオルタナティヴ・ロックの最重要バンドであり、オルタナティヴとしての精神的を掲げながらも、バンドとしてのアティテュード、アート表現を決して曲げる事無く、ポップ性や大衆性を上手く兼ね揃えたバランス感覚が絶妙な稀有なバンドとしてサーストン・ムーアを始めとするアーティスト達の羨望を集めており、そのバンドとしての「在り方」は一目置かれる存在だった。ひたすら純粋に音楽を奏で続け、激動の時代を苦悩しながらも颯爽と駆け抜けた「R.E.M.」の名曲「Man on the moon」が今作のラストでうっすらと流れてくるのは、何とも感慨深く、美しいものだ。

ヴェノム 最悪過ぎる

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この映画における宣伝の「最悪」やら「凶暴」やら、全部嘘だ。ヴェノムはローガンやデッドプールのような映画に「なれた可能性はあった」。だが、敢えて挑戦しなかった。キャラクター性に真摯に向き合い、必要な過程として描くための「残酷表現」から逃げなかったマーベルの先駆者達とは違い、ヴェノムには新しい事にチャレンジしようという情熱が一切感じられない。SONY側もなんだかんだ今作はMUCとは関係がない違う世界線の単独映画だと言いながらも結局は将来的にMUCとのクロスオーバーを意識しているようで、それが残酷描写の自主規制に繋がり、つまりレーティングの面では全年齢対象映画として興行的には大きなメリットとなった。トム・ホランド演じる新スパイダーマンニューヨーク市民の生首を咥えながら臓物を振り回しているヴェノムというのも見たかったが(絶対あり得ない!)、将来的にMUCとのクロスオーバーを意識しているらしいヴェノムには首が飛び内臓や脳ミソが飛び散る人体破壊描写などがある訳がないし、文字通り安心して食卓で箸をつつきながら観れるファミリームービーとなっているのだが、そのくせヴェノムは全般に渡って一丁前に内臓を食うだの手足を引きちぎるだの頭から食ってやるだの吠えるため、なんだかやたら威勢だけは良いピエロに見えてしまう。ヴェノムは出来もしない事をさも雰囲気でやれるように誤魔化しているような威勢のいい事を言ったもん勝ち映画だ。要はひたすら外連で誤魔化しているだけなのだが、こういうのを割と「最悪」と言うのではないだろうか。「見せない方が怖い」手法では無く、見せられないだけだ。何とも煮え切らない多方面に顔色を伺った演出の数々に強い反感を覚えるし、そもそもヴェノムが粗暴な事を言う度、それらは全て言い訳のような物言いに聞こえてしまい、怒りが収まらない。

 

 

様々な「大人の事情」を汲んでみても、余りにも残酷表現をガワに追いやり過ぎてしまった。ヴェノムにおける到底真面目に理解する事など出来ない酸鼻を極めたホラー描写の数々にはまったく心から全く感心させられるし、それらの演出の全てには「子供が楽しんで観れるのはこのくらいだろう」というなんとも面の皮が厚い制作側の浅はかな手抜きと傲慢を感じるのは気のせいか。ヴェノムは「レーティングの中のギリギリのラインを攻める」ことすらも、一切諦めている。世の中に絶対に「安全」な作品や表現は無いが、ヴェノムは限りなく「安全」に近い映画だ。恐らくこの映画を見て心底ヴェノムが怖かったと思う人はいないはずだ。角を取ってひたすらに丸くした安全志向のポップ表現。その文脈では大成功であるし、その良さが評価されているのは百も承知である。だが、この映画に於いてはヴェノムというキャラクターの無軌道な凶悪性や暴力性を描く事、どうやらそれこそがヴェノムというキャラクターに真摯に向き合う事ではなかったらしい。ともなればこの映画の主人公であり、ヴェノムの宿主となるトム・ハーディ演じるエディ・ブロックとヴェノムの親和性、関係性こそが観ていて微笑ましいというのは分かる。その異種間バディ感は2次創作における妄想性を煽ってクリティカルに想像を膨らませるものだし、それが所謂「キュートなヴェノム」人気に繋がり日本でもマーケティングとしては成功しているのだが、しかし、2人の親和性を今作の1番の売りにするのであれば、ヴェノムというまさに宇宙からやってきた無軌道な侵略者が「何故主人公であるエディ・ブロックを選び、彼じゃないとダメなのか」を物語のオリジンとなる今作のうちに時間をかけてしっかりと描かなければならなかったはずではないだろうか?そのエクスキューズが全くといっていいほど描かれないため、本来は危険生物であるヴェノムがエディ・ブロックに命を懸けてまで肩入れする理由が分からないまま、最後までエディと地球の為に奮闘するヒーローの様体を観せられても、感情移入の余地すら無いのだ。残酷表現を一切取り上げられてしまったヴェノムを老若男女問わず面白く魅せるには、とにかく何がなんでもこの異種間友情モノの熱い関係性で観客をブチアゲる事に必死に頭を使ったのだろうが、しかしながらそれらの要素ですら結局プロットや演出が表層的で余りにも浅過ぎるために、全体的を通して結局居所の悪い残尿感が残る残念な映画であった。

 

ちなみに一応ヴェノムが「負け犬同士だからお前が気に入った」とエディに説明するシーンがあるが、この映画における主人公エディ・ブロックの一体何処が「負け犬」だと言うのか?彼は物語序盤で敏腕ジャーナリストもといニュースリポーターとして大人気を博していたところ、ある種の業界のタブーに突っ込んだところ社会的に抹殺されてしまうのだが、曲がりなりにも巨悪を正さんとし、己の信念に基づいて立場と危険を顧みずに勇敢に行動した彼の事を「負け犬」と呼んでいいのか?どう見てもこの映画の前半で描かれる彼は才能と行動力に溢れた人物である。その彼が信念に基づいた結果、結果として仕事も彼女も社会的立場も失った事を安置に「負け犬」と指しているなら、この映画の「負け犬」はさぞ使いやすい記号的なものだろう。どうやらこの映画の「負け犬」とは「過程を問わず」社会的立場と愛する者を失った者の事らしい。それと、この映画においては2人を結びつけるキッカケが「負け犬」である必要性は全く無いはずだ。何故なら2人は負け犬じゃないからだ。そんなに無理して「負け犬バディ」感を出そうなんてしてもらわなくて結構である。大した掘り下げもしないクセに「ウケやすいように、それらしくしておこう」なんて強引な設定には非常に強い反感を覚えるのみだ。

ヘレディタリー継承 素晴し過ぎる

 

 

 

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こんな面白い映画を映画館で観れたのだ。

なんだか、生きてて良かった。

 

 

エクソシスト以来の恐怖」という宣伝文句も強ち間違いでは無い。だが、昨今のホラー映画のポスターや宣伝文句にはいかんせんハッタリ、外連が足りない。「この映画を見ると血しぶきあげて死ぬ」とか何でもいいじゃないか。今のはバカだと思われる可能性があるから撤回するが、何を皆クソ真面目になっているんだと思う。

 

 

ドント・ブリーズ」が「20年に一本の恐怖の作品」というひたすらテキトーな宣伝文句だったのは記憶に新しい。「サンゲリア」のように生命保険や墓までつけろとまでは言わないが、割と最近で言えば「キャビン」のポスターのキャッチコピーを見習うべきだ。「あなたの想像力なんて、たかが知れている。」。そこまで言うなら、観に行こうとなるのが道理である。そもそも映画なんて自分の想像力を超えるものを観に行くわけだから、これを超える映画のキャッチコピーは無いわけだ。実際「キャビン」にはあらゆる想像力を超えた面白さがたくさん詰まっていた。

 

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話をヘレディタリーに戻そう。今作はどうもエクソシストと比較されているのだが、かつてエクソシストは公開後に世界中で人死を出し、世界中にネガティヴなエフェクトな与えた。その影響力で言っても「時計仕掛けのオレンジ」と並ぶような曰く付きの「恐怖映画」だが、ヘレディタリーの「恐怖」はエクソシストと似て非なるものである。エクソシストを「お母さんが諦めずに子供を救おうと奮闘する家族映画」として観る事も出来る。ヘレディタリーもそういう見方は出来るが、ヘレディタリーで描かれる恐怖は単純に「家族映画」として一括りに出来ない所にあり、そもそも恐怖の表現が多彩なところにある。しかし、ホラーとしてどうというよりかは全編が圧倒的な「嫌な感じ」なのだ。それが、この映画をホラー映画として面白く、美しくさせている。ひたすら「恐怖の追求」という意味と文脈では「悪魔のいけにえ」を強く連想させる。

 

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この美しさに匹敵するのだ。

 

 

 

悪魔のいけにえ」はホラー映画史上最も「人間の恐怖」を表現し尽くした「恐怖映画」だが、ヘレディタリーほど細部まで精巧に考え抜かれて撮られた作品では無い。テキサスで育ったトビー・フーパーが自身の故郷で撮影した事によるミラクルが起こした映像的マジックもあったのかもしれない。だが、へレディタリーのカメラワークやセット、キャスティングからプロットは何から何まで文句のつけようがないほどに巧妙かつ完璧なのだ。全ての伏線と演出がミニチュア・セットの如く計算し尽くされた筆舌に尽くしがたい極めて映画的な表現がヘレディタリーにはあるし、歴史に燦然と輝くホラー映画達に対するリスペクトも決して忘れない。

ヘレディタリーは全て「イヤらしくない」のが秀逸だし、特に「恐怖の追求とその鮮度」という点において人後に落ちないアイデアと魅力に溢れている。ヘレディタリーで描かれる究極の「絶対こんな家族と関わりたくないし、こんな空間にいたくない本当に嫌な感じ」の完全な表現。これらは決して誰にも描ける事ではない。その表現を可能にしたのは、アリ・アスター監督の家庭環境から培われた経験やパーソナルな問題や酸鼻を極めるトラウマから湧き上がらせたものであるというのは映画監督、いや、表現者として至極真っ当かつ、素直に素晴らしいと思う。こんなに素晴らしい事はない。当たり前だが、本当に面白い表現というのは「個人的」なものだ。その上で、それらを実現する才能と知識が必要であり、残酷な事かもしれないが、口先の情熱だけでは決して良い映画は作れない。ヘレディタリーは最初から大衆に受け入れられるようにマーケティングやスクリーミングテストを何度も重ねたり、予め観客の反応を忖度して作られているような映画群とは明らかに一線を画している。ヘレディタリーはひたすらにアイデアと才能の勝利なのだ。

 

 

100点

 

 

ファンタスティック・ビースト 黒い魔法使いの誕生 どうしようもなさ過ぎる

 

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今作はハリーポッターシリーズで「最も退屈」だが、最も意欲的な作品である。ハリー・ポッターシリーズ及びファンタスティック・ビーストシリーズを批評する多くの場合に、ガジェットや映像的なスタンダール・シンドロームばかりが追求されており、それは元々イギリスの「児童文学」であるハリーポッターシリーズが世界的人気を博した大きな理由として、ウォルト・ディズニーが自身の生涯をかけて目指した究極のマット・アート的「現実にはあり得ない魔法や日常、新世界への没入」に世界中の人々は時代を問わず心を踊らせるものだからであり、原作の世界観の細やかな再現としてその手法を遺憾無く発揮したハリーポッターの映画シリーズにおいてそういった見方は至極健全なのだが、せっかく今作では明確に原作者がそういった要素を徐々に脇に追いやろうとしているのに関わらず、いつまでも形骸化した記号的なノスタルジーにばかり目につけているハリー・ポッターファンは複雑な気持ちなのではないか。今作で「よく分からなかったけど、ダークで最高!」と言っているような「ダークナイト」をさも全肯定しているような盲目的な絶賛の声には正直耳を疑ってしまうし、プリクエルや改変を巡って、世界中のスター・ウォーズファンが原作者のジョージ・ルーカスと戦ったように、ハリー・ポッターのファン達はJ.Kローリングと戦うべきである。

 

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ハリー・ポッターファンが今作の出来に満足しているなんていうのは、とても信じ難い。勿論、原作者が提示したものが絶対的「正史」であり、ファンにとっての「聖典」である事は逃れ得ないのだが、これは「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」に通ずるような欺瞞と疑問に富んだ作品だ。多くの人々がハリーポッターの世界に求めているものは今作で描かれる「政治性のあるメッセージ」でも「戦争の陰惨さ」でも「人権問題」でも無いはずだ。求められているのは「魔法を始めとしたファンタジー世界への没入感」であるのに対し、今作はそういったライト層に対する「NO!」を突き付けた作品と言える。いや、突き付けてきてはいるが、それがとても弱い力で頼りない上、どっちつかずなのが難点だ。クソほど甘ったるいストロベリークリームケーキの中にスポンジが入っており、スポンジには目配せとしての隠し味的スパイスもあるのだが、残念ながらどれも全く美味しくない。だが、多くの人々がハリーポッターの世界に求めているであろうファンムービー的な接待要素や記号的な魅力のみに頼ることなく、J.Kローリングの「作家性」が今作では良くも悪くもしっかり発揮されている点においては、新しい試みと言えるだろう。

 

ちなみにハリーポッターシリーズはよく「スターウォーズ」と「指輪物語」の二番煎じと指摘されるようだ。まさに主人公のハリー・ポッタースター・ウォーズルーク・スカイウォーカーその人であり、両者ともに本来の両親の顔や愛を知らずに他者に育てられ、極めて閉塞的な環境の中で「このまま一生を終えるのか」と現状に絶望する毎日を過ごしていたが、ある日突然己の運命と向き合う事になり、夢焦がれた外の世界へ旅立ち、最終的に世界を救う。

 

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このような貴種流離譚の物語はストーリーのフォーマットとして定番かつ、例に漏れずハリーポッターシリーズもその流れを汲んでいる。ハリーポッターに登場する死の秘宝はそのまま指輪物語における「指輪」であり、さらにヴォルデモート卿の「分霊箱」の元ネタでもある。ハリーポッターフロド・バギンズ同様「指輪=分霊箱」を破壊する目的の旅をする事になる。これらは膨大なまでの設定量指輪物語のほんの一部に過ぎないのだが、J.Kローリングはハリー・ポッターを執筆する際に「世界中のありとあらゆる物語を参考にした」と言う。

 

しかし、ハリー・ポッターシリーズの大きな魅力や特徴として、キャラクターの出自と時代背景、その設定の細やかさがある。キャラクターそれぞれに設定があるのは当然であるし、世界観を織り成す数々の設定やキャラクター達の掘り下げや描き込み自体を褒めているのでは無くて、それらには1つ1つ作者の明確なイデオロギーが詰まっているのが特徴だ。ハリーポッターの世界観やキャラクター達はエクストリームなほどに「分かりやすい」エスタブリッシュメント像とマイノリティ像に分かれ、善悪問わずに賢くて強い女性像(特に母親)がハッキリ強く描かれており、レイシズムジェンダー、迫害や虐待などパーソナルな家庭問題等を抱えたキャラクターが目立つ。こういった設定が多いのはJ.Kローリングが度々インタビューで公言しているように、ハリーポッターの主要キャラクターの多くは全てJ.Kローリング自身の投影であり、もはや生き写しそのものなのだ。崩壊した家庭環境や異性問題に悩まされ、生活保護を受けながら「賢者の石」を描いていたという事からも、決して並よりも恵まれた環境ではなかったJ.Kローリング自身の投影が様々なキャラクターの影の部分の肉付けになっているし、支配階級や富裕層に対しての皮肉やアンチテーゼは非常に分かりやすい形として描かれる(ダドリー一家という戯画化された富裕層に対する作者の嫌悪感は特に顕著である)。

 

 

 

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とりあえず頭が悪そうなのは一目瞭然である。

 

 

それは分かりやすく例えれば、スピルバーグが自分が経験した「家庭問題」や「両親と子供」のトラウマ体験を自身のアイデンティティとして描くべきテーマ性やして今でも提示し続け、作家性としているのと同義であるし、さらにJ.Kローリングはインタビューで「指輪物語は子供時代に読んだことはあるけど、ファンタジーは嫌い」と答えている(一体どこまで信用して良いものか分からないものだが)。本人の弁によれば、第1作目の「賢者の石」を中盤まで書き終えた時点で自分が描いているのはファンタジーであるという事に気付いたという。つまり少なくともJ.Kローリングは自身がハリーポッターの世界を描く事で、世界中の子供達をキラキラのファンタジーの世界に連れていきたい!なんて事は思ってはいないし、そもそもJ.Kローリングという作家性の本質は「ファンタジー性」では無く、ファンタジーという要素を通して「自身に経験に基づいた現実」をリアルに表現する事にあるはずだ。恐らくはそれを実現させたかったのが、今作ファンタスティック・ビースト黒い魔法使いの誕生なのである。勿論、ハリーポッターシリーズに常に要求されているようなファンムービー的接待要素もゼロではないが、前作からの魔法生物萌え要素や主人公達のラブロマンスの行方などは割と軽めのマイルドなタッチの仕上がりとなっており、それらの安全要素をガワに置いやってまで今作でJ.Kローリングが表現したいのは、敢えて安っぽい言い方で書かせてもらうが「ダーク」で「シリアス」な「リアル路線」なのだ。その極めて分かりやすい象徴として、今作の終盤に戦車や原爆のキノコ雲を見て魔法使い達が戦争を想起して恐怖するシークエンスがあるのだが、メディアのハイプ宣伝に促されるまま、今作に「圧倒的ファンタジー感」を求めてスクリーンに足を運んだファンにはこのシーンは違和感を覚えたのではないだろうか。ハリー・ポッターにディズニー・ランドのような夢の世界を求めている人達は面食らったはずだ。それもそのはず、極端な言い方をすればエレクトリカル・パレードにナチが出てこないのと一緒であるし、このシリーズにおいて舞台装置的表現での戦争恐怖描写は果たしてどうか…?とは思うのだが、それよりも「従来の設定や安全な要素を出来るだけ排除して、新しい方向にシフトチェンジしたい」という原作者の姿勢の象徴としての意味合いが強いシーンであるので、恐らくこういった表現をこの先も敷衍させていきたいのだろう(最大限汲み取ってはみたものの、実は大して意味のないシーンかもしれない)。そして、全5作品を予定している長丁場になるであろうファンタスティック・ビーストシリーズへの観客の興味の持続という意味では間違いなくこの映画は失敗している。極めて説明的なストーリーテリングの乱雑さ、演出バランスの欠如、前作の良さを全く活かしきれていない等、1つの映画として多くの問題があるが、1作目ファンタスティック・ビーストがハリー・ポッターシリーズのスピンオフ作品としては分かりやすくキャッチーな掴みとして成功したならば、今作は改めて方向性をこれまた「分かりやすい逆のキャッチーな記号」によって極めて説明的に指し示したシリーズの挑戦的かつ分岐的作品になったと言えるだろう。

 

 

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この2人は

 

 

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この2人である。

 

 

しかし、やはりそこにJ.Kローリングと大衆との決定的な乖離が生じる。ファンタスティック・ビーストはJ.Kローリングが本来描きたかった(ハリー・ポッターでは描き切れなかった)新しい表現方法であり、シリーズが再評価されるビッグチャンスとも言える。というのは、ハリー・ポッターシリーズは世界で最も売れたシリーズの1つだが、どうしても特に日本においての支持層がライトに偏り過ぎている印象を受けてしまう。個人的にこんなことはどうでもよいのだが、それは恐らく原作を熟読し知り尽くしているというファンの方が明らかに少ないという人気シリーズにあるまじき現状があり、この規模の大人気シリーズが作品に記号的なファッション要素や側面ばかりを求めているファン層で埋め尽くされている歪さになんとも呆れてしまうものだ(無論、娯楽大作そういうものなのは百も承知だが)。ハリー・ポッターシリーズの映画は新作か出る度にいつも金曜ロードショーでの再放送等、メディアの宣伝体系は気合が入っているようだが、とうとう今作に至っては蓋を開けたら「聞いてた話と違う…」という印象を受けるのではないか。その印象は今作に始まった事では決してないが、さらに今作はそういったライトなファン層との距離感をさらに広げようと、もしくは解消しようしているような印象を受ける。

 

 

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正直に言うと今までのハリーポッターの映画作品群を見るに、J.Kローリングに映画の脚本の才能があるかどうかは疑わしい(J.Kローリングが脚本を担当するのは前作ファンタスティック・ビーストからであるが、ハリー・ポッターシリーズの映画製作において、脚本や演出に対しての全面的な発言権は持っていた)。なのでここまで来たら、もはや今後はJ.Kローリングにもっと無軌道に思うがままにハンドルを切ってほしいのである。それが一体どのような結果をもたらすのかは想像するだけで悍しいが、そちらに振り切った方がまだ鑑賞に耐えうるユニークな作品が見られるはずだ。まだ5作目中2作目だが、どうやらここから先は「賢者の石」の時のような「ファンタジー」とは違った世界が描かれるらしい。だとすれば、その新しい土壌を作った起爆剤としての役割を持った本作はなんにせよ、新しい「誕生」なのである。